ソウェト自立生活センターマネージャー、故ムジ・ンコシさんについて
2017年9月 レソト政府の視察団へ説明 |
また、3月1日に行われたメモリアル・サービス(追悼集会)での私自身の挨拶文も掲載します。
2017年11月 ブラムフィッシャー地区での集会で(左) |
(略歴、もしくは慌てて日本の関係者に書いた追悼)
ムジは、ソウェトの貧しい大家族の中に生まれました。母親がスプーンに入れた砂糖を熱して、茶色になったものを水に溶き、レモンティーだよと言って飲ませてくれた話や、少額であっても売れそうなものは何でも商売にして糊口を凌いだ話をしてくれたのを思い出します。
高校時代に銃で撃たれて障害者になった後、しばらくは自宅で孤独に過ごす日が続いたと聞いています。大家族が日々の糧を得るために必死に働く中、自宅でひとり横になっている生活は、家族の重荷になっている自分を強く自覚させられるものだったようです。
1980年代に入り、南アフリカの障害者運動の祖とも言えるフライデー・マブソ氏の自宅訪問をきっかけに、ヨハネスブルグ中心部にできた「自立生活センター」が行うサポートグループに通い、多くの仲間との出会いを作っていきます。その中で、障害者運動と地域生活に目覚めていきました。積極的に社会に出るようになり、その結果名門ウィットウォーターズランド大学に入学、1989年に教育学士を取得しました。当時を振り返って、ムジは、自立生活センターは黒人居住区でなかったにもかかわらず、サポートグループにはソウェトからの参加者が最も多かったと振り返っています。当時の社会の様子は分かりませんが、黒人も白人もなく、新しい時代を作っていこうという障害者運動の息吹が芽生えていた時代を感じさせます。
また、1986年から98年まで、DPSA(南アDPI)で「権利擁護とパラリーガル・アドバイザー」として、法律家協会などとともに、アパルトヘイト末期から終焉にかけての南アの障害者運動が発する、力強い当事者の声を支えてきました。特に、南アフリカ障害者権利憲章(1993)は、自己決定と自立生活について言及されていた、途上国にあって極めて先進的な内容の文書で、ムジにとっても「原点」になったようです。この文書は後に、ポスト・アパルトヘイトの障害者施策の基礎となる政策文書「障害統合戦略白書(1997)」へとつながっていきます。
1999年から4年間、ハウテン州知事室でジェンダー・障害者・子ども・高齢者を担当する副課長として、政策のモニタリングや調整を行いました。行政での仕事は、長年拠って立つところだった運動理念と、アパルトヘイト後の行政の実態との板挟みの中で、とても精神的に苦しかったと言います。行政にいながら、行政への抗議デモなどに関わり疎まれたという話も聞きました。
そうした行政経験、運動経験を活かし、退職後はパラクア・ダイナミクス社 (Paraqua
Dynamics)を立ち上げ、個人コンサルタントとして、行政・企業への取り組みを進めました。特に雇用促進の取り組みでは、「意識変革」「職場のアクセス改善」「ダイバーシティ・ポリシーへの障害のインクルージョン」という3点セットを作り、職業紹介や職業訓練、ノウハウ提供とは一線を画した、権利重視のアプローチを企業に押し進めていきました。
自分の収入はそうしたコンサルタント業や、コンサルタント業が暇な時は文房具の取次販売、ケータリングサービスなど多岐にわたって貪欲に取り組むことで得ていました。その貪欲さは、幼いときからの苦しい経験と、家族を守りたいという思いから出ていたように思います。ときには、行政の人たちや他のリーダーから疎まれても、自分の時間・能力を切り売りすることについてはとても厳しい人でした。
収入をビジネスに求める代わりに、運動については無償で様々な団体のリーダーを引き受けてきました。あまりに数多く、書ききる自信はありません。私たちの活動に近いところでは、DPSAの議長と全国的な障害者団体の連合体SADA(南アフリカ障害同盟)の代表を2013年まで務めていました。そのころから、DPI世界評議員としても活躍しました。
ムジの民主的な団体運営のスタイルは、常に正論を行くもので、事前の根回しを極力嫌い、全員が参加する議論を重んじ、議論を尽くした後の異論は必ず議事録に留めさせていました。国際的な場でも、そのスタンスは変わらず、全員が集まってオープンに議論すべきというのが持論でした。そうした強情さも、政治的な動きをしたい側からは疎まれるきっかけになりました。
また、南アフリカ当事者運動の発祥とも言えるSHAP(下肢麻痺者自助協会)の代表を2012年から引き受け、前任者がボロボロにしていった作業所を、再び地域の障害のある人もない人も集まり、仕事や職業訓練を行う場として蘇らせたのも素晴らしい業績でした。昨年から、ベンチャー企業による、ICT訓練のためのコラボレーションも進められ、障害のある人もない人も集っています。最近では、障害のある人もない人も一緒に自営業を始めるためのワークショップを、外部の団体と協力して進めていました。障害のある仲間のために、仕事を取ってくる、投資を引っ張ってくる、優秀な営業マンでもあったのです。
私たちのプロジェクト実施地である、ソウェト自立生活センターもこのSHAPの敷地内にあります。天井に穴の空いた廃墟同然の建物を改装したところから、私たちのプロジェクトはスタートしました。ムジ自身が30年前に自立生活センターとの出会いから出発したという思い、そして、重度の人の地域生活を支えていくセンターを蘇らさないといけないという彼の強い信念が、このプロジェクトを5年にわたって導いてくれたと思います。
自立生活センターを再開するにあたって(ムジは、日本は「再開」させてくれたといつも強調していました。彼の人生を振り返ると、日本が「作った」「持ち込んだ」と言うのはおこがましく感じるので、私も「再開」と言います)、仲間を募りました。ムジは、「地域の障害者が自立できるものでないと意味がない」と言って、各種団体からは誰も選ばず、リハビリ病院を回って、最初のメンバーを集めました。プロジェクト管理の立場から言うと、そうした「あてのない」方法は好ましくないのかもしれませんが、私もムジの熱意にほだされてきていたのでしょう。一緒にソウェトを家庭訪問で回ったのも懐かしいです。
2013年11月 最初のメンバーたちとのワークショップで(右) |
集まったメンバーを最初に見た、ハウテン州の行政の担当者は、プロジェクトの行く末がとても心配になったと同時にガッカリしたといいます。とにかく、実施計画が何かもわからない、英語も上手でない、話し合いもうまくできない、そんな人たちばかり集まって、どうするのだろうか、そう思っていたようです。しかし、半年後に行われた中間評価に彼らが立ち会ったとき、その評価は一変しました。
もちろん、日本が持ち込んだ、サポートグループの手法や実践は大きなものだったでしょう。同時に、自分のときとやり方が違ってもそれを受け入れ、賛同し、経験の浅いメンバーを支え、見守ってきたムジのリーダーシップは素晴らしいものでした。ムジのリーダーシップがなければ、日本からの技術はただの技術に過ぎなかったでしょう。
団体運営の経験のない、障害者になってまだ年の浅いメンバーが多い中で、ムジも私も手こずることが多かったように思います。愚痴も多く交わしました。それでも、最後にはそんな彼らにイラつく私をなだめ、常に「彼らは知性と知恵がある。一緒に座って話をしよう」と声をかけるのもムジでした。我々は誰も見捨ててはいけない、自分で出ていくのでなければ、絶対に追い出してはいけない、とムジはよく説いてくれました。
晩年は、自立生活センターに割く時間を増やし、コンサルタント業はほとんど休業状態でした。ひとつは、行政からの補助金にめどが付いたことで、それを維持し、発展させることに時間を費やしたいということがあります。そしてもうひとつ、全国を飛び回る生活に疲れを感じていたとよくこぼしていました。50歳を過ぎ、奥様との時間を大切にしながら、活動を続けていきたい、そんな思いを日々のムジの言動の端々に感じることができました。
現在では、自立生活センターソウェトは、40名を超える介助者を抱え、30名余りの介助利用者に日々の生活の力を与えるセンターに急成長しました。サポートグループやピア・カウンセリングにもスタッフたちは情熱を持ち、ソウェトの中でも手薄な地域へ日々取り組んでいます。もちろん、今、皆落ち込み、どうしたら良いかわからない喪失感に包まれています。しかし、ムジが残してくれたもの一つ一つの意味を噛み締め、必ずや地域のすべての人を巻き込んだセンターへと更に飛躍してくれると信じています。
そして、障害者団体、ソウェトの人たち、行政、国際的なネットワークすべてが、皆を支援し続けてくれることを願っています。
ムジと最後に話した言葉があります。20日水曜日、夕方、ヨハネスブルグを発つ飛行機の座席にたどり着いたときにムジからの電話が鳴りました。こちらから電話をして繋がらなかったので、日本からでもいいか、と思っていたのですが、律儀にかけなおしてくれたのです。
話は、大したことない事務的なことで、運転手の雇用を巡って前の雇用主と調整したよという内容でした。ムジは満足そうで、私がいない間、引き継いで進めておいてくれることにしました。用件が済み、だいたいいつもなら「またね」ぐらいの軽い挨拶をする2人でしたが、ムジは今回に限って2回こう言いました。
"Bon Voyage"
ムジがなんでこんなことを言ったか分かりません。おそらく何の気無しだったのか、たまには変わったことを言おうと思ったのか。とにもかくにも、これがムジからの最後の言葉でした。この24時間後、ムジは緊急入院し、そのまま帰らぬ人となったのです。
2013年11月 ILセミナーでのシンポジウム 右からゼイン(知事室課長)、ムジ、宮本、ピート(レメロス代表) |
(メモリアル・サービスでの宮本の挨拶)
(Miyamoto's message at the Memorial Service of Mr. Nkosi)
I'd like to offer my condelences for the death of Mr. Muzi Nkosi.
He was a great leader, mentor and comrade of disability movement at all levels from international to community as everyone knows.
He is more than an activist to me. I cannot forget when I was in difficulties in creating relationship with ILC members, he said "I'm your friend". Yes, for me, he was not just my colleague for IL project, but best friend in South Africa. He always supported me whenever I'm in trouble both in private and in business.
Without Muzi, I would have been merely a Japanese at a loss in South Africa achieving nothing for persons with disabilities. Using his skills and experiences, he always guided me in a right direction.
When we formed the first IL team in Soweto, Japanese had an idea of appointing several leaders from disability organisations that seemed safer for a successful project. But he refused our idea. Instead, he told me "Let's go to the hospitals and recruit persons with severe disabilities from community". In fact, his strategy was correct. All of them showed their enthusiasm to assist other persons with disabilities in community. Muzi proved everyone has a potential to become leaders. I'm proud to say members in Soweto ILC are his "children".
Muzi gave me his last words over the phone just a day before he was hospitalised. I was just in a airplane in Jo'burg to Japan then. You suddenly called me. After a short business talk, you said "Bon Voyage" twice. I'm very very sad to send you off now, but have to say "Bon Voyage" to you.
May his soul rest in peace.
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