投稿

3月, 2018の投稿を表示しています

在プレトリア日本大使館の領事手数料の変更(お安くなります)

 在プレトリア日本大使館から、メールが来ました。領事手数料が明日(2018年4月1日)から変更になります。この手数料は 2018年4月1日から2019年3月31日まで 有効です。  このところのランド高円安を反映して、手数料(ランド建て)は全体的にお安くなります。こういう手数料って、日本円での価格が先にあって、現地通貨とのレートを勘案して毎年決めているみたいですね。  外国の方が日本へのビザを申請する際の手数料も、405ランド→355ランドに値下げとなります(シングルビザの場合。インド人を除く)。ちなみにインド人のシングルビザは100ランドになります。 2018年3月31日まで 2018年4月1日から      (1)  10年旅券          2,150ランド 1,900 ランド (2) 5年旅券           1,480ランド 1,310 ランド (3) 5年旅券(12歳未満)        805ランド 715 ランド (4) 査証欄増補           335ランド 295 ランド (5) 在留証明            160ランド 145 ランド (6) 出生、婚姻証明等        160ランド 145 ランド (7) 翻訳証明            590ランド 525 ランド (8) 署名証明            230ランド 200 ランド (9) 自動車運転免許抜粋証明     280ランド 250 ランド  この間一緒に日本に行ったハウテン州のお役人さんたち。お役人さんはビザ手数料はかからないのですが、障害をもつ課長に同行した介助者の方(民間の方です)だけかかりました。4月の訪日なら50ランド安かったか。

南アフリカの行政の人の肩書をどう訳しているか

 何回か南アフリカから視察・研修を手配していて、「肩書をどう訳すか」という問題にぶち当たります。大統領とかはわかりやすいですが、下の方になってくると、同じ言い方をしていても国によって立場が違ったりするので難しいですね。  想像力でいろんな訳をつけてくる方もいらっしゃるのですが、ここでは、自分のプロジェクトの範囲で、大使館やJICA南ア事務所が普段使っている訳を当てはめて表を作ってみました。参考にしてみてください。  では、まず、国からです。 肩書(英語) 肩書(略称) 肩書(日本語) President 大統領 Deputy President 副大統領 Minister 大臣 Deputy Minister DM 副大臣 Director General DG 次官 Deputy Director General DDG 次官補 Chief Director CD 部長 Director 課長 Deputy Director DD 副課長  副大臣までが政治家ポストなのは、日本と似ているのでわかりやすいと思います。Director-generalは事務方のトップなので、「次官」としているようです。    次に、州政府です。 肩書(英語) 肩書(略称) 肩書(日本語) Premier 州知事 Member of Executive Council MEC 州大臣 Head of Department HoD 次官 Deputy Direc

ハウテン州主催「ユニバーサルデザインとアクセシビリティ対話」(2018.02.06)

イメージ
 2月6日、ヨハネスブルグ市内のホテルで、ハウテン州知事室主催による「ユニバーサルデザインとアクセシビリティ対話」というイベントが行われました。  「対話」というのが誰と誰の対話なのか。おそらく、障害部門(この国では障害者団体や関係するNPO)と政府部門の対話、なのではないかと思います。あと、研究者も少々。 見たところ40-50人ぐらい。 議論に集中できる人数ギリギリといったところ 「ユニバーサルデザイン」とは何かについての発表が、アクセス・ユニバーサル・ソリューション社のマンディさんからあった後(私の登壇の前というせいか、福岡の七隈線を取り上げてくれました)、国際的なベスト・プラクティスの紹介、ということで宮本が登壇しました。 たまには真面目にネクタイを。 動きがありすぎていい写真が撮れなかったそうです  「ベスト・プラクティス」って結構難しいですね。今回は、東京オリンピック・パラリンピックに向けて建設中の新しい国立競技場を例に話をしましたが、当然、課題はいろいろあるわけです。世の中、「完璧」というのはないわけです。重箱の隅をつつけば「ベストやないやん」というのは当然あるわけです。  普通は、PDCAサイクルとかスパイラル・アップが大切だよ、という結論が出てくるわけです。それを話してもよかったのですが、それはそれでなんか平凡かつ時間がたりなさそうです。  そこでこの日は、「障害者団体が声を伝える2つのルート」とか「何をもって実際のデザインは決まるのか」とか、ちょっとひねった話をしてみました。「ベスト・プラクティスの紹介とちゃうやん」という突っ込みはご勘弁を。  15分で、南アのプロジェクトの紹介も一緒に、という無茶な依頼だったのですが、司会のアマンダ・ギバート運輸省ユニバーサル・アクセス課長のご配慮+挨拶がひとり少なかったという幸運のおかげで、時間をたっぷりいただけました。25分過ぎたあたりで、「残り1分」の紙を出してくれて、それでも5分待ってもらえました。ありがたかったです。  終わった後、アマンダ課長が関係者を集めて南アのプロジェクトについて協議をしたいと言ってきてくれたり、南アタクシー協会(ミニバス乗り合いタクシーの全国組織)も、「アクセシビリティの向上に責任を果たしたい」と発言したり、

ハウテン州障害者の日イベントに出展してきました(2017.12.03)

イメージ
 12月3日、国際障害者の日には、世界中で様々な行事が行われます。  私の住むハウテン州でも、毎年、州知事室が主催して大掛かりなイベントが行われます。州内の各自治体を毎年場所を変えながら行われるのですが、昨年、2017年は西端にあるモハレ市で行われました。 イベント会場はモハレ市役所ホール ハウテン州モハレ市。ヨハネスブルグの西隣にあります (Wikipedia: Mogale City Local Municipality)  第1部は、とにかく歌とダンスです。朝9時ごろから11時過ぎまで、次々とパフォーマンスが続きます。9時にみんなが揃うことはなくて、9時からだらだらと人が集まりはじめて、11時過ぎに概ね到着します。それもあって、第1部は歌とダンスが中心になります。みんな好きですしね。 次々と歌って踊って  この時間に到着すると、サンドイッチとりんご、ジュースの入った朝ごはんのパック(ブラウン・バッグ)が手渡されます。  お昼が出る、というのは、日本でもありますが、朝から(それも決して早い時間ではない)というのは、ちょっと考えにくいかも知れませんね。  主催者である州政府がミニバスを借り上げたり、所属する障害者団体や作業所が、一軒一軒回って会場まで参加者を連れてくるのですが、どうしても時間がかかります。車が足りなくて、何度も回ったりということもあります。 歌とダンスが続き、やがて、会場は満席に しかし、参加者はみんな、朝早くから準備するので、朝食が摂る時間がない人もたくさんいます。そこで、多少遅くても、朝ごはんが用意されるわけです。  これは、役所のイベントに限らず、私たちがワークショップなどを開くときも必要な準備です。朝ごはんのおかげで開始がもっと遅れる、とか、朝ごはんがないと不満の声が漏れるとか、なにか本末転倒な感じもせんではありませんが。。。。  それはさておき、私たちは、会場の外でブースを出して、自立生活センターの宣伝をしました。ソウェトILCからはサービス・マネージャーのオレボヘン、レメロスILCからはピア・カウンセラーのコルネが来て一緒にブースを設置しました。 自立生活センターを紹介するブース 行政のブースは、紙袋に「お土産」もたっぷりと充実しているので長蛇の列でした。

JICA広報誌『Mundi』2017年12月号に掲載されました

イメージ
 ちょっと前の話なのですが。。。。  JICAの広報誌『Mundi』12月号に、南アフリカでの活動が掲載されました。  12月号は社会保障特集号となっていて、障害問題や高齢化社会などが取り上げられています。  私たちの事業と並行して南アフリカで展開している、JICAの障害主流化技術協力プロジェクトとまとめてひとつの記事になっています。ぜひご覧ください! Mundi 12月号  (ここから「 社会を変える主体になる 南アフリカ 」をクリックすると記事が読めます(PDFです) 社会を変える主体になる 南アフリカ  (記事への直接リンクはこちら)

手動車いすにモーターを取り付けて電動に (2017.12.03)

イメージ
 日本では、「簡易型電動車いす」が当たり前に見られるようになって久しいですね。 ヤマハなんかが代表格です 財団法人テクノエイドさんのサイト(商品検索)  自分で車いすを漕いだり、歩いたりするのは少しはできるけど、ちょっと距離があると難しい。でも、電動車いすだと、自家用車に乗せるのも難しいし、家の中も扱いが大変。そんな人たちのニードを捉えて、手動でも、電動でも使える車いすとしてあっという間に普及していきました。  南アフリカでも、お金がある人だと、欧州製のものを乗っている人がいます。個人輸入か寄贈品か分かりませんが、ごくまれに日本製の簡易型電動車いすを使う方もいます。  さて、去年 (2017年) の12月3日、障害者の日のイベントに、手動車いすにカチャッと取り付ければ電動になるよ、というメーカーさんの販売代理店が出展していたのでご紹介します。  速いでしょ?  まあ、道路事情なんかもありますから、使えるところは限られては来るのでしょうが、それでも坂の多いヨハネスブルグでは役に立つかもしれませんね。  取り付けは簡単です。 これをカチャッとするだけ   参加者の関心も高く、色んな人が見に来ていましたが、こういうイベントは行政が車を出して、ご飯も出して参加する、比較的低所得層の人が多いこともあってか、その場で商談まで行き着く感じではなかったです。 うちの自立生活センターのブースの横で出展してました

南アフリカ、4月から社会手当引き上げ 障害手当は5.9%増

イメージ
 南アフリカは、日本と同じで3月末が年度末です。ですので、いろんなことが4月から変わります。  社会手当の額が変わるのもこの時期です。  SASSA(南アフリカ社会保障庁)の2月速報値によれば、社会手当受給者総数は1745万人強。全人口が5600万人ほどなので、単純計算で30%あまりの人が何らかの手当をもらっていることになります。政府は2020年までに、社会手当受給者を1810万人まで増やす計画です。  世帯単位で考えると、文献にもよりますが、40%ほどの世帯で手当を誰かがもらっているという人もいれば、60%という人もいます。手当の額はそんなに多くはないのですが、多くの世帯にとって基礎的な収入になっているのは間違いないでしょう。  これも文献によって評価はまちまちですが、概ね、最低限の生活を維持するためには貢献しているが、不平等の改善はこれでは達成し得ないという論調だと言っていいのではないかと思います。究極的な不平等の改善には、教育や医療・保健の改善や産業育成などの長期的な社会構造の調整を通した雇用状況の改善、といったオーソドックスな手段が有効といったところでしょうか。   どの手当もそこそこ増額されていますが。。。  さて、障害手当ですが、4月から月額1600ランドが1695ランド(金曜日のレートで約15,300円)に引き上げられます。5.9%増ですね。  政府の説明では、VAT(付加価値税)が4月から1ポイント上がって15%になるのを含んだため、これまでと比べて引き上げ幅が大きくなったと説明しています。  しかし、インフレ率を考えると、今年度後半のインフレ率は低下傾向にありますが(1月時の消費者物価は前年同月比で4.4%)、手当額が5.9%増するとは言え、実質横ばいと見るのが人々の実感ではないかとも思います。      

ソウェト自立生活センターマネージャー、故ムジ・ンコシさんについて

イメージ
  2018年2月25日に急逝した、南アフリカ障害者運動のリーダー、ムジ・ンコシさんについて、逝去直後に「何か経歴ないですか」と言われて書いたものがあります。彼が急逝して、早くも半月が経ちましたが、記録と記憶のために掲載します。 2017年9月 レソト政府の視察団へ説明 彼から聞いた話やいただいた履歴書などから慌てて書き起こしているので、不十分かつ不正確なところも多々あろうと思いますが、ご容赦ください。  また、3月1日に行われたメモリアル・サービス(追悼集会)での私自身の挨拶文も掲載します。 2017年11月 ブラムフィッシャー地区での集会で(左) ------------------------------------- (略歴、もしくは慌てて日本の関係者に書いた追悼) 南アフリカの自立生活プロジェクト(JICA草の根技術協力事業)で、DPI日本会議の現地調整員として活躍していただいていたソウェトILCのマネージャー、ムジ・ンコシ (Mr. Muzi Michael Patrick Nkosi)さんが、脳梗塞のため2018年2月25日(日)午前7時頃、ヨハネスブルグ市南部のネットケア・マルバートン病院で亡くなりました。55歳でした。 ムジは、ソウェトの貧しい大家族の中に生まれました。母親がスプーンに入れた砂糖を熱して、茶色になったものを水に溶き、レモンティーだよと言って飲ませてくれた話や、少額であっても売れそうなものは何でも商売にして糊口を凌いだ話をしてくれたのを思い出します。 高校時代に銃で撃たれて障害者になった後、しばらくは自宅で孤独に過ごす日が続いたと聞いています。大家族が日々の糧を得るために必死に働く中、自宅でひとり横になっている生活は、家族の重荷になっている自分を強く自覚させられるものだったようです。 1980年代に入り、南アフリカの障害者運動の祖とも言えるフライデー・マブソ氏の自宅訪問をきっかけに、ヨハネスブルグ中心部にできた「自立生活センター」が行うサポートグループに通い、多くの仲間との出会いを作っていきます。その中で、障害者運動と地域生活に目覚めていきました。積極的に社会に出るようになり、その結果名門ウィットウォーターズランド大学に入学、1989年に教育学士を取得しました。当時を振り返って、ム