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南アフリカの補助金評価会議「パネル」 (2017.11.15)

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 南アフリカでは、補助金を受けると行政が現場にやってきて、実地調査をします。  ハウテン州のNPO補助金の場合、3年間で1サイクルとなっています。つまり、最初に申請するときに3年分の事業計画を提出します。  そして、事業計画が承認されると、補助金交付の合意書が毎年交わされます。3年1サイクルではあるのですが、毎年、計画に決めた目標が達成できたかどうかを評価されて、未達成だと次年度の補助金が削られる可能性があります。   この補助金審査・評価の会議を「パネル」と呼びます。  「パネル」には、行政からは、州の社会開発局本庁からNPO補助金担当やモニタリング・評価担当、州社会開発局の地区担当ソーシャルワーカーといったところが出席します。  団体側は、代表と事務局長、経理担当者が呼ばれるのが普通です。 レメロス自立生活センターでのパネルの様子 行政と障害者団体が向かい合うのではなく、円卓状にランダムに座る  私たちのプロジェクトは、2013-15年度はJICAの資金を使って、代表者やピア・カウンセラー、介助者、介助コーディネーターの人件費を出していました。JICAからの資金が2015年度末で終了するにあたって、ハウテン州社会開発局が引き継ぐ、ということになったので、2016年9月から、社会開発局のNPO補助金が出されています。  ですから、「パネル」は、申請した2016年のはじめと2016年度の終わりごろに行われており、今回が3回目になります。  これまでのパネルでは、レメロス自立生活センターの場合、センターにとって突拍子のない質問も出たらしく、結構大変だったようです。  パネルに来るのは、基本的に現場レベルの職員です。ハウテン州社会開発局に引き継ぐに当たっては、課長や副課長といった少し上のレベルの人と協議を重ねてきた経緯もあり、パネルに来る職員がこの事業を完全に理解しきれていないところがあります。  そんなこともあって、今回、レメロスのパネルに初めて同席することになりました。  当日、レメロスに到着すると、行政の人も一人だけ早く来ていて、私が同席するという話をすると、良かったという顔をしていました。それでいいのだろうか、当事者間でそろそろ完全に話を付けてほしい、と思わなくもないですが、せっかくなので最後まで参加するこ

南アフリカのお歳暮「ハンパー」を買ってみた

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 ヒカキンさんならきっと、100万円ぐらい軽く稼ぐネタにするのだろうと思いますが、私にはそんな才能はありません。ユーチューバーが子どもに人気の商売らしいですが、是非はさておき、誰でもできる仕事ではなさそうです。  さて、日本にお歳暮があるように、南アフリカでもクリスマスシーズンに食べ物の詰め合わせを贈ります。南アフリカのクリスマス商戦は早くて、10月の終わり頃から飾り付けもあちこちで見られます。  逆に、ハロウィーンはあまり見られないんですよね。お面とか売ってますけど、近所の子どもたちが押し寄せてくることもありませんでした。 この贈り物、「ハンパー Hamper」と呼ばれるのですが、辞書をひくと、「ピクニックに持っていく食べ物を入れたかご」とあります。アメリカ英語では洗濯物を入れる大きなバスケットも指すようです。 英辞郎(Hamper)    もとの意味から転じて、クリスマス・ハンパーと言う、食料品の詰め合わせの贈り物が誕生したようです。  今回、近所のピックアンドペイというわりと庶民的なスーパーで買ってみました。20リットルのバケツに入ったハンパーが、1つ199ランド(1600円ちょっと)です。お手頃。  店内撮影禁止だったのが残念ですが、こんな味気ないバケツが大量に積んでありました。ブラックフライデーでだいぶ売れたようです。 白いバケツにシールで説明書きが貼ってあるだけ  引っ越した当初は、これが何か分からなくて、スルーしていました。食べ物が中にあるとは思いませんよね。  ウールワースのような高級スーパーと比較しようと思ったのですが、ウールワースにはハンパーが置いてありませんでした。お金持ちは、こういう安い「詰め合わせ」ではなくて、きれいで小さくて高価なクリスマスギフトを選ぶようです。 ナイフでここをこじ開けました。いかにも安っぽい作り  開けてみると。。。。 ジャジャーーン  結構上の方まで詰まっています。中身を全部出してみました。 やっぱり庶民は質より量が大好き 全部食べ物ですね。加工食品の山です。お菓子やジュースの素もたっぷりで、子どもがたくさんいたらそれなりに喜ばれそうです。そういうのに気を使う親御さんは、もらっても困ってしまうかもしれません。  「No Nam

プロジェクトは良くも悪くもツールのひとつ

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南アフリカ・ハウテン州では再開発住宅(RDPハウス)の10%をアクセシブルなものにする、という政策目標を持っています。人間居住局では、この目標を達成するために、障害者向け住宅だけの区域を作りました。  確かに政策目標は達成できるでしょう。しかし、障害者はただ「住宅に困った人」なだけではありません。家族、仕事、医療、娯楽など、さまざまな地域との関わりが、このプロジェクトのあり方で損なわれたと思います。  現に、障害者向けの再開発住宅地区に住む障害者にインタビューをすると、周囲の地区から差別的に呼ばれているという話を聞きます。  また、いつ家が建てられたかによって、住宅の規格が異なっています。後に建てられた、面積も広くて設備もよい住宅と古い住宅が混在してしまうことから、障害を持った住民同士の心理的な軋轢も感じます。  他にも、どの障害に対しても同じ規格の住宅で、人によっては便利じゃないつくりになっているとか、犯罪に会いやすいとか、色々と問題を聞かされます。 障害者向け再開発住宅の一例 大きめに作られ、スロープがドアの前にある  プロジェクトとは、3年とか5年とかいった「一定の時間枠」と、予算という「限られた資源」の中で、「特定の目標を達成する」ために行われる活動です。  しかし、当然ですが、人は、外から決められた時間枠や一つの目的のためだけには生きていません。  人生は長いです。プロジェクトが始まる前に人生は始まっていますし、プロジェクトが終わってからも長い人生が待っています。  また、一人の人にはいろんな役割があります。私の場合だと、父親であり、夫であり、プロジェクト・マネージャーであり、お酒の好きな47歳のおっさんだったりと、色んな顔があります。  人の集合体である、地域社会もしかりです。  最初の例で言うと、住宅に困った人を住まわせる場合、その人たちはプロジェクトの上では「住宅のない人」という特徴で捉えられます。しかし、実際には、その人たちがそれまでの生活で育んできた地域社会の価値観や、文化があります。経済的営みもコミュニティによって異なります。  では、時間や資源に制約があり、目的が絞り込まれている「プロジェクト」と、時間的にも面的にも広がりのある、人々の「生活」や「人生」の間をどう取り持てばいいのでしょうか。

JICA南アフリカ事務所20周年パーティー、障害セクターも紹介されました (2017.11.17)

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 JICAが日本人スタッフ2名と現地スタッフ1名の陣容で、南アフリカ・プレトリアのホテルの一室で南アフリカ事務所を立ち上げてから20年が経つそうです。  それを記念して、11月17日、パーティーが開かれました。私も出席してきました。 左は南アフリカのジャカランダ、右は日本の桜  関智宏所長のユーモア混じりのご挨拶は、参加者からも好評でした。 関所長   来賓挨拶は、社会開発省のヘンドリエッタ副大臣でした。副大臣は、ご自身弱視の障害をもつ障害当事者で、DPSA(南アフリカ障害者協会)出身の政治家です。社会開発省では障害問題を所管しています。この日のご挨拶は、日本と南アの国際協力全体を俯瞰する内容でした。 ヘンドリエッタ副大臣  その後、20周年プロモーションビデオが流され、現在JICAが専門家を送っている各セクターの紹介が行われました。障害セクターも、社会開発省が展開しているリンポポ州の障害者エンパワメント事業をはじめ、しっかりと紹介されていて、よく目立っていました。  参加者のほとんどが、当然、障害セクターの人ではありませんから、こういうところでPRできたのはよかったのではないでしょうか。 社会開発省に派遣されている鷺谷専門家  社会開発省マンティピ障害課長 この課長も車いすを使う障害当事者です  私も、専門家はじめ、何人かの関係者とお会いすることができました。普段、日本人に会うことのない生活をしているので、こういう機会は結構大切だったりします。

南アフリカ障害者権利憲章(1992年)と自立生活

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 ソウェト自立生活センターの月例ミーティングで、きちんと歴史と障害者の権利について勉強しよう、とマネージャーのムジが発案して、今週金曜日から毎月、歴史的な文書を読むことになりました。  ムジは勉強する、というより、そうした文書を90年代から書く側の人でしたから、教える方ですね。次の世代に伝えよう、ということです。  第1弾は、南アフリカ障害者権利憲章(Disability Rights Charter of South Africa)です。 原文は南アフリカ精神保健連盟のサイトからダウンロードできます(PDFファイル) 3ページほどの短い文書ですが、歴史的には意義深い この文書が出てきた背景として、以下の流れを簡単に知っておくといいと思います。 アパルトヘイト政策を取って国際的に孤立していた南アフリカ政府は、1981年国際障害者年を認知しなかった。しかし、NGOによる活動は活発になった 1982年、国連「障害者に関する世界行動計画」を採択 1986年、ようやく国内障害者年を実施。政府とNGOによる調査が行われ、人種・地域にかかわらず、障害者のサービスが殆どないことが明らかに 1990年、ネルソン・マンデラ釈放。アパルトヘイト政策廃止の方向へ 1991年に、人権弁護士協会障害権利部(Disability Rights Unit of Lawyers for Human Rights)と南アフリカ障害者協会(Disabled People South Africa: DPSA)が障害者権利憲章の起草を開始 1992年12月、DPSAで憲章が採択  この後の流れも見ると、この憲章がひとつのNGOが出した文書、というのではなく、南アフリカの障害者政策のターニングポイントだったと言っても過言ではないことがわかると思います。 1994年、南アフリカ全人種参加による総選挙、アパルトヘイト廃止 1996年、南アフリカ新憲法制定、第9条に障害による差別の禁止 1997年、統合国家障害戦略白書(Integrated National Disability Strategy White Paper)策定。白書とは、日本のような政府報告書の意味ではなく、政策を示したもの  障害者権利憲章は、「我々、南アフリカの障害者は、以下を要求

カトレホンのサポートグループの美しい歌声(2017.11.02)

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 ヨハネスブルグの南東側にカトレホンという地区があります。  日本語でカトレホンとググると、今年始めに、巨大ネズミが赤ちゃんを食い殺したという物騒な事件が引っかかってきます。それだけ聞くと物騒ですね。 巨大ネズミが生後3か月の女児を食い殺す(南ア) ↑↑写真のネズミがすごいでかいので、注意して開けてくださいね  近隣のトコザやフォスルーラスと合わせると、ハウテン州内ではソウェトに次ぐ規模のタウンシップ(旧黒人居住区)になります。  ウィキによれば、もともと飛行場があったとか。「パイロット」なんていう名前の鉄道駅があるのも、その名残かもしれません。  この地区で、今年度から、レメロス自立生活センターが、地元の障害者団体「ヴェザバントゥ」の協力をいただきながら、サポートグループを実施しています。 2017.8.24 カトレホン地区でピア・カウンセリング・ワークショップ  この日は一足早く、今年最後の集まりとなりました。最後、ということで、サポートグループのプログラムは行わずに、地元団体「ヴェザバントゥ」の活動を振り返ったり、今年1年をひとりひとり振り返ったりしました。   ヴェザバントゥの集まりは、いつもみんなで賛美歌を歌い、祈りを捧げてからプログラムが始まります。 この日は、レメロスのピア・カウンセラー、モニカの介助者がリードしていました。うまいんですよね。  最後の歌は、みんなで手を繋いで歌います。私も手を繋いだのでビデオが撮れませんでした……  ヴェザバントゥでは、今年は、サポートグループをはじめ、HIV/AIDSに関するワークショップ、視覚障害者団体のセミナーなど、さまざまな活動に取り組みました。中でも、サポートグループやピア・カウンセリングは、「自分の肩にのしかかっていた重荷がすっと取れるような、全く新しい経験だった」と多くの方から、高い評価をいただきました。  ヴェザバントゥは、行政の補助金を得ないで運営しています。みんな手弁当です。リーダーのアブラムさんは、補助金がないのは苦しいけれど、自分たちの手で団体を動かしていることに誇りを感じてもいるようです。 中央がアブラムさん  右から2人目がレメロスのモニカ・レセテディ この国では、お昼ごはんといえば、すぐに「予算はないの?」で

JICA本部からソウェト自立生活センター視察(2017.11.14)

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 JICA本部から人間開発部の熊谷真人次長と、南アフリカ社会開発省で活躍されているJICAの鷺谷大輔専門家のおふたりが、ソウェト自立生活センターに視察にみえました。熊谷次長は別の案件で南アフリカにいらしていて、忙しい中を縫ってソウェトまでいらしてくださいました。  ソウェト自立生活センターでは、マネージャーのムジ・ンコシからセンターの概略を説明、さらなる人材育成が必要であるという話をしました。   JICA人間開発部熊谷次長(左) 隣は鷺谷専門家 センター訪問の後は、ブラムフィッシャー地区に住む、ザマさんの自宅を訪ねました。  ザマさんは、隣のミードウランズ地区に住んでいたときから、自立生活センターの介助派遣を使って生活しています。ブラムフィッシャー地区に移ってからは、その地区で自立生活センターのサービスを利用する初めての当事者として、近隣を訪ね歩いて、障害者を掘り起こす役割を積極的に担ってくれています。  先月行われた、ブラムフィッシャー地区でのイベントでは、同地区の自立生活委員に選ばれました。今後も地域のために活躍することが期待される若い世代です。 ソウェト・ブラムフィッシャー地区で自立生活セミナー(2017.10.26)  この地区は、道路も最近舗装されたばかりのところも多く、また、BRT(バス高速輸送システム)の路線からも外れていることから、今後、私たちの事業でも重点的に力を入れていきたいと考えているエリアです。  ですので、このタイミングでJICA本部の方に視察いただけたのも、よかったかなと思っています。お忙しいところ、本当にありがとうございました。 ザマさんを囲んで

南アフリカに中古車を輸出する6つのステップ(3)

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 一月ほど前になりますが、前回は、日本側で最初に準備すべき書類について書きました。 南アフリカに中古車を輸出する6つのステップ(1) 南アフリカに中古車を輸出する6つのステップ(2)  最初、南アの人の中には 「面倒だから、スクラップとして輸入して、後から登録すればいいんじゃない?」 と言う人がいました。一瞬、魅力的な意見でしたが、普通に考えれば、スクラップを車両として登録することなんかできるはずがありません。スクラップは車の形をしていても、あくまでスクラップです。南ア行政は、思ったよりまともに機能しています。 スクラップって、こんなのでしょ?  そういえば、最近、タイで日本の中古車いすを爆安(3-4000円ぐらい)でさばいている業者をネット上でちらほら見ます。  業者によれば、田舎の両親におみやげに買ってあげたい、バンコクに住む若者層が顧客の中心だそうです。ネット販売だから若者がターゲットですよね。  しかし、スリポーンがフェースブックから直接接触しようと試みたものの、本名も所在地も最後まで明かさず、 「捕まるかもしれないから」 と言って逃げられました。  話を総合すると、スクラップとして輸入して、売りさばいているようです。日本にもそれなりの協力体制がないとできないような気もするし、闇が深いんじゃないかと勝手に想像しています。  それはともかく、今回のテーマです。   ※改めてお断りしておきますが、以下は、私の経験(2016-17年段階の身体障害者用車両の寄付)に基づいたものです。中古車を南アフリカに輸出する際は、必ず、然るべきところに確かめながら手続きを進めてください。ルールはよく変わりますし、担当者によって運用が異なることも日常茶飯事です。 南アフリカでは中古車の輸入は原則認められていません 日本で必要な書類を整えましょう 南アフリカで書類を整えて、申請準備はいいですか? 申請にもいろんな段階があります 輸入許可が降りたら、さあ、日本を出港です 南アフリカに入港したら、終わり、ではありません 3. 南アフリカ側で用意する書類は?  ここでは、一番最初に用意すべき書類を説明します。実は、輸入許可が下りるまでに幾つかの段階があるのですが、それぞれ提出する書類が異なります。  

虹の国の国歌を歌えない?虹の国の人たち

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 保育園から帰ってきた娘が、学校で習ったよと言って、 ♪ンコシシケレーリーアーフリーカー と歌ってくれました。南アフリカの国歌の出だしですね。  南アフリカは12月で学年が終了します。12月は3週目ぐらいから休みに入りますので、今は学年最後の発表会の準備で、保育園も小学校も練習に励んでいるようです。近所の子どもたちが帰る道々歌うのも、遠くに聞こえてきます。  この歌の由来は、色んなサイトに出ているのでそっちが詳しいと思いますが、ざっくり言うと、歌の前半は『神よ、アフリカに祝福を』という反アパルトヘイト運動、黒人解放運動の象徴となった歌から取っています。  では後半は、というと、こちらは『南アフリカの呼び声』というアパルトヘイト政権時代の南アフリカの国歌から取っています。  民主化された、虹の国の象徴として、両方を合わせた歌を作った、ということなのでしょうね。  11ある公用語の内、コーサ語、ズールー語、ソトゥ語、アフリカーンス語、英語の5言語で各節を歌い繋いでいきます(5バージョンあるのではなくて、1つの歌の中に5つの言語が入っています)。2つの歌をくっつけたということで、途中転調しますが、綺麗に一つの歌にまとまって、盛り上がります。  訳付きの動画がユーチューブに上がっていたので、貼り付けます。  これは、2014年にヨハネスブルグ・エリスパークスタジアムで行われたスプリングボクス(南アフリカ)vsオールブラックス(NZ)の試合前の模様です。ちょうどこの日は、日本から出張で来ていたピア・カウンセラーの人たちが帰国した日で、もう1日長く滞在していればテレビで盛り上がれたのに残念でした。  さて、このように歴史的背景も相まって、とても意義深い歌ではあるのですが、当の南アフリカ人の中にはこれを歌えない人たちも多くいます。 AFP通信  W杯開幕、南ア国歌を「歌えない」国民たち その複雑な背景(2010.6.11)  この記事では、一部の言語で歌詞がわからない人がいる、というのと、特に黒人層の一部で旧体制への反発をもつ人がいる、という2つの理由を分析しています。  私が見ている感じでは、前者の方が多いのかなあ。ラグビーの試合だと、白人層が多いから、アフリカーンス語の部分になると声が大きく聞こえてくるし、黒人層の多

ソウェト・ブラムフィッシャー地区で自立生活セミナー(2017.10.26)

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 ソウェトの北はずれにあるブラムフィッシャー地区で、10月26日、この地区の障害者・家族をはじめ、地域住民の方、150名余を集めて、自立生活や自立生活センターについてのセミナーを開きました。  このセミナーは、ソウェト自立生活センターが、地元市議会議員と地区委員会に提案して実現したものです。市議会議員と地区委員会が主催する形で開催されました。 ブラムフィッシャー地区委員会で地元市議会議員にアピール (2017.09.07)  最初は10時開始、ということで準備が進んでいたのですが、前日には10時半開始ということになりました。当日、地区委員の人がやってきてスタートしたのは12時でした。いつもこんなものです。 主催者の到着を待つ、ソウェト自立生活センターの ナタン代表(右)とムジ・マネージャー(左) 私は早朝にプレトリアに行く用事があり、10時15分頃慌てて到着したのですが、参加者はまだ30人ぐらいで、主催者はまだ誰も来ていない、という想定の範囲内の状況でした。  自立生活センターのスタッフたちは、始まるまでの間、参加者名簿に記載してもらったり、自立生活センターに登録してもらったりと忙しく働いていました。 書類に書き込むのが苦手な人が多いので、 スタッフ(右)が一人ひとり聞き取りながら登録用紙に記入していく  主催者の方で、地区のミニバス・タクシー組合と掛け合って、ミニバスをチャーターしてくれました。  ミニバスは参加者一人一人を拾って、会場にやってきます。地区全体の地形は起伏が激しく、また、道路もスピードが出ないようにハンプ(かまぼこ状のブロック)があちこちに設けられているため、さほど広い地区ではないのですが、参加者を送り届けるのにとても時間がかかります。   ミニバス・タクシーが続々と到着  セミナーには最終的には150名余りの方が参加されました。  車いすを使う人だけではなく、知的障害児のお母さんたちや、酸素吸入の装置を持参してきたHIVポジティブの方など、多様な障害者・家族が集ってきました。  私たちから見て、介助が必要なぐらいの重度障害者はほとんど見かけませんでした。やはり、まだまだ家から出られないようです。今日からの活動が、自立生活センターに求められているのだと思いました。