「ド素人がやってきた途上国とのおつきあい」(2005-6年の原稿)

 唐突ですが、2005年から2006年頃にかけてNPO法人コミュニティサポート研究所の雑誌『こむさ』に寄稿していた記事を久しぶりに入手できたので、ご紹介します。

 残念ながら『こむさ』は4号までで一旦休刊。長い沈黙の後、5号が出たようですが、再び休刊状態となっています。私の連載も1-4号まででした。そのため、やや尻切れトンボのようになっています。

 1990年代に何をしていたか、20代駆け出しの自分を振り返りながら、30代の自分が書いたものです。日本で暮らしているときはこんな事を考えてたんだなあとか。

海外暮らしでこうなる前の話ですね


 改めて読み返すと、どうも生煮えなところが多く、赤面するような内容です。字数制限とか、遅筆グセなど、生煮えにしてしまった言い訳はたくさんありますが、ご笑覧いただけるとありがたいです。

 なお、個人名を伏せるなど若干の修正をしています。また、4回の連載を1つにまとめるために、体裁を整えてあります。コミュニティサポート研究所の齋藤明子さんには、電子データでの原稿をいただくとともに、転載をご快諾いただいています。ありがとうございます。

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クロスオーバーNPO=行政のように縦割りにならないために
ド素人がやってきた途上国とのおつきあい

DPI日本会議事務局 宮本泰輔

 大学時代に留年(留学ではない)を2度経験した。1度目は3年生のときに分かっていたからショックはなかった。4年生のときに奨学金が切れて困ったけれど、5年生のときには復活した。2回目の留年は予想外のできごとで路頭に迷った。「6年生」なんて、小学校にしかないものだと思っていた。
 そのとき、なんとなく誘われるがままにDPIという障害者団体でバイトをしていた。その前から関わってはいたけれど、そこで働く人の個人的な介助者としてだった。とりあえず、たまに事務所にやってくる英語の手紙を訳したりしていた。ちなみにDPIとはDisabled Peoples’ Internationalの略で、日本語では「障害者インターナショナル」と訳している。詳しくは、http://www.dpi-japan.org(DPI日本会議)か、http://www.dpi.org(DPI世界本部)をご参照いただきたい。

 94年7月、初めての海外旅行に出かけた。93年から02年まで続いた国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)「アジア太平洋障害者の十年」のキャンペーンNGO会議に出席するためだった。これ以降、海外に行くたびに「英語を勉強しなきゃ」と思って帰国しては、三日坊主に終わることを繰り返すようになる。
 会議は、高級なホテルで行われた。偉い(であろう)先生がいっぱいいた。開会式には当時のラモス大統領が、閉会式には当時の副大統領(後に大統領になって罷免されることになる)のエストラダ氏が出席した。日本ではこんな間近に首相が来ることはねえだろうなあ、と思った。国が熱心に取り組もうとしているようにも感じた。
 作業所の作品の即売もホテル内でやっていた。レセプションではフィリピンの出席者がカラオケを熱唱して盛り上がった。授産施設(障害者が住み込んで働くところ)への見学なんかもあった。分科会とか見ていたけれどさっぱり分からなかった。でも、障害者のことをテーマにすると何でもいいことをしているみたいに見えた。
 フィリピンのDPIの人たち(現地語でKAMPI:フィリピン障害者連合と言う)と、だらだらとホテルの部屋で酒を飲むことがあった。会議の感想を聞いたとき、彼らから「この会議はショーウィンドーの中の品物のように障害者を扱っている」と言われた。この言葉は今でも心に残っている。「じゃあ参加しなければいいのに」とも思ったが、なぜか聞けなかった。余談だが、このKAMPIの人に偶然カナダで先日、10年ぶりに再会することができた。向こうも一介のボランティアだった自分を覚えていてくれて、大変うれしかった。
 これが、自分にとっての途上国の障害者とのファーストコンタクトだった。

 国の偉い人が障害の分野に関心を持つことは重要なのだろうけれど、いったいそれの「何に」関心を持ってもらうのか、どういうメッセージを、誰がどのように発するのかが本当は重要で、そこを間違えると取り返しがつかないことになる。「障害者をショーウィンドーの品物のように扱う」ことは、国の偉い人をひきつけるときに一番簡単なのだけれど、失うものは計り知れない。
 黒人のことを白人ばっかりで決めたら、変だと直感で分かる人も多いだろう。途上国の人たちの生活のあり様を先進国の人たちだけで決めてしまったら、やっぱり不自然に思うだろう。しかし、障害者のことになると、障害のない「先生方」が決めてしまうことにあまり違和感が持たれていないのが現実だ。むしろ、そうした方が「安心」と思っている向きも多いのではないか。
 そんな高尚なことを10年前の自分が考えたかどうかは分からないが、とにかく、この会議を境に少しずつ、なし崩し的に世界の障害者とのお付き合いを始めた私だった。

 前回のフィリピンでの話に続いて、海外で見たもの、感じた事からつれづれに書いていくことにする。2度目の海外旅行も、国際会議への出席だった。「ただで海外に行ける」という言葉に釣られて、ほいほいと介助者として再び日本を飛び立った。思えば若かった。今では腰が痛いの、体力が持たないのと、断わる理由探しに事欠かなくなっている自分が少し悲しい。
 普通、障害者関係の国際会議は11月末から12月はじめにかけて行われることが多い。これは、12月3日が「国際障害者の日」となっていることに関係が深いらしい。この会議は「DPIアジア太平洋ブロック総会」という2年に一度のイベントで、このときはジャカルタで行われた。
 会議自体は例によってよく覚えていない。ただ、前回と違って、障害者が中心になって運営されているのが特徴だった。一緒に行った人が、「街に出ないと何もわからないんだよ」とうそぶいたが最後、会議そっちのけで、電動車いすでのジャカルタ散歩にいそしむことになった。バスや鉄道に乗るのも一苦労だったが、そうしたバリアフリー関係(バリア関係の方が適切か?)の話は別の機会にまとめるので、ここでは印象的だった出来事に触れたい。
 川沿いに自転車屋さんがあった。前を通りかかったとき、不思議なものが売っていた。そう、新品の車いす。病院とかに置いてあるような普通のもので、どう見ても日本製だった。ご丁寧に寄付者やら病院名らしきステッカーまで貼ってある。正確なことは覚えていないが、日本円でウン千円で売っていた。向こうの物価水準からして、決して安くはないのだろうが、車いすをそんな安い値段では作れないことだけは確か。明らかに横流し品だ。
 会議場に戻って、たまたま会議に来ていた某国の政府系国際協力機関のジャカルタ滞在の方にこの話をしたら、なぜか強い口調で「そんなはずは無い」とおっしゃる。未だになぜそんな強硬に否定されたのか、自分にはわからない。善意は有効に生かされているという前提は崩せなかったのだろうか。
 あの当時は売られている寄付の品々を見て「こうやって儲ける奴がいるんだ」ぐらいにしか思わなかったが、このトシになってつらつら考えるに、善意とは所詮そういう性格のものかもしれないと思うようになった。
 車いすを手にすることで何ができるのか、どの程度の人が知っているのだろうか?「歩けない人が移動出来るようになる」「寝てた人が座るようになった」ぐらいは解っても、その「歩けない人」の未来にどんな希望や可能性が見出しうるのか、なんてことは、車いすを善意でもらった家族や地域の人たちにも、そして本人にも分からないことかもしれない。第一、車いすを手にしても、バリアだらけで一歩も外に出られないことだってある。そうしたら、車いすは割りのいい換金商品に早変わりだ。カネになるものは手っ取り早く売る。生きていく上で当たり前のことである。それを私は非難することはできない。
 善意で車いすを差し上げようと思っている人たちも、ぜひ、障害者と車いすの関係について少し立ち止まって考えてほしい。希望や可能性が自分たちに見出せないところには、善意は案外届かないものであると承知しておいた方がいい。善意の品々よりも先にやるべきことがあると、私は信じている。

 前号から伸び盛りの若手、Sさんがタイの報告を書かれている。じっくりと腰をすえて生活しようという方の報告なので、なんとなくこっちの話が軽く見えるのが不安だが、編集長もまだおだててくれていることだし、もう少しお付き合い願いたい。
 さて、大学卒業の追試準備と並行して与えられた、最初の仕事が「申請書書き」。障害者団体からファックスで送られてきた手書きの申請書案にデータなどを付け加えて申請書の形にした。わけがわからないうちに郵政省(当時)に提出した。そう、海外支援をやったことのある人なら一度は聞いたことがあるであろう、「郵政省ボランティア貯金寄附金事業」への申請だった。
 結果から言うと、事業が採択されて、私はフィリピンへ、今号も座談会のほうで出ておられるNさんはパキスタンに短期出張することになるのだが、その話は次号にまわすとして、この「寄附金事業」なるものについて、少し触れておきたい。
 「途上国とのおつきあい」じゃぁないじゃないかという指摘もあろうが、「先進国」に住むわれわれが途上国の障害者とつながりを持とうとすると、こうした先進国のゼニ・カネとの係わり合いは避けて通れない。
 これは「国の助成金ではない」と郵政省は言う。では何なのかと言うと、「預金者の善意の寄附金を郵政省がお預かりして分配している」のだそうだ。まぁ、建前上はそりゃそうだ、なのだが、結局分配するときの意思決定は郵政省がなさる(注:現在では、郵政公社が審査をして総務省が許可を出す形になっている)。
 補助金とかではなくて、預かっている寄附金の分配だから、もらうNGOの側はそこから運営資金(人件費とか管理費とか)を得てはいけないとなっている。逆に、自己資金を一定の比率で出さないといけない。つまり、寄附金をもらえばもらうほど、NGOの側の負担も増えるということになる。

・よくあるNGOの言い分「こんなんやったら、事業すればするほど貧乏になるやない!」
・よく聞く郵政省の言い分「NGOがおやりになる意義のある事業を寄附金で応援するわけで、団体活動まで寄附金におんぶにだっこになるのはいかがなものかと…」

 実は、この議論、なかなかこれ、という「正解」が見出せない。「本当に必要な活動だったら、自分でできる範囲でまずやんなよ(できないなら無理にやるな)」というのも一つの正論だし、「カネさえちゃんとあればできるんや。そんなこと言うたって、スタッフは霞を食って生きろとでも言うんかい!(ノウハウはあるんだ。後は資金だ)」というのも現実。まぁ、よく見ると議論がかみ合っていないんですがね。ちなみに、国際的な援助機関の多くは「間接費」とか「管理費」の名目で運営資金の一部を補助している。まぁ、これを得たいがために事業を「つくる」なんてとこもあるとかないとか。それはそれで団体運営としては必要な営業力なんだが、それでいいんかねぇというのもあったりする。
 いずれにせよ、このボランティア貯金寄附金は九五年をピークに超低金利時代の下、寄附金総額が急減してしまう。一方で申請したいNGOの数は増加。となると、一事業あたりの分配金が減る(自己負担が増える)。で、「説明責任」の名で、年々監査が不必要に厳しく(途上国側カウンターパートの領収書を認めないとか、領収書に和訳を付けろとか)なるとかいった具合に、額も少ないのに敷居の高いスキームになってしまった感がある。郵政民営化後はどうなるのだろう?
 次号では、フィリピンの所得創出セミナーの話に戻る。

●フィリピンでの所得創出  
 「所得創出」というと一瞬想像がつかないが、要は仕事を作って生活の糧を得ることである。企業で雇ってもらうとか、公務員になる、という「給料取り」になる選択肢が少なく、かつ農村に戻っても人余りが生じている社会では、自分たちが個人や集団で何か仕事を興さないと生活の糧は得られない。その辺の活動を束ねて「所得創出(income generation)」と呼んでいる。内容も売店(フィリピンではサリサリストアという)経営や園芸、工芸品製作・販売、屋台の食堂、トライシクル運転手、軽工場での下請けなど多岐にわたる。最近だと、インターネットカフェもどきもある。もちろん、規模が大きくなって企業のように人を雇用するケースもないわけではない。
 外部から所得創出活動を支援する際には大きく二つの方法があると思う。一つは所得創出活動そのものを立ち上げる際の資金や物品の援助、もう一つは所得創出活動のノウハウを授けるための技術支援である。いずれも、一長一短がある。また、あまり大規模な資金提供やハイテクを要する技術移転は現地に根付かない。それどころか資金をあてにした「にわか親戚」が大量に発生するのがおちである。
●九五年に初めてバコロドへ
 九五年八月、本当に大学を出たばかりのど素人宮本は、電動車いすユーザーのIさんとともに、フィリピン・バコロド空港に降り立った。タラップを担がれて降りると、ターンテーブルもない荷物受け取りカウンターで、群集の中から自分の荷物を探し出して外に出る。外にはフィリピンDPIの人や現地で勉強中の日本人Tさんが待ってくれていた。乗ったのは軽トラックの荷台。皆でIさんを担ぎ、荷台に載せたあと、四人ほどが荷台に同乗して車いすを支えた。
 バコロドではフィリピン各地から集まった障害者リーダーたちを対象に、所得創出のセミナーが行われた。内容は、商品選定・流通・消費者のニーズ把握・販売戦略・宣伝などである。彼らにはセミナーで得た知識を元に、自分たちの地域で何ができるかを考え、所得創出活動を立案することが求められていた。そして実現可能ないくつかに、DPI日本会議が事業をスタートさせるための資金(シードマネー)を提供することになっていた。セミナーの講師はコミュニティー支援をしているフィリピン人のプロに頼んだ。地元にいい知恵があるなら、それを活用するのが当然である。
 では自分たちはわざわざ日本から来て何をするかというと、コンピューター技能訓練やバリアフリーの紹介、そして事業の進め方の打ち合わせである。正直なところ地元でやっているのだから、無理に旅費をかけなくてももっと賢い金の使い道があろうかとも思うのだが、そうはいかない。なぜか。
●「顔の見える援助」は誰の為?
 「顔の見える援助」という言葉は、読者の方もよく聞かれるだろう。途上国に行くとメイドインジャパンの品物は出回っていても、日本人の顔が見えないから日本は損をしている、という話である。だから、日本のお金を使って援助をする以上は日本人もなるべく海外に行け、ということらしい。確かにそうだけどね。でもさ・・・・。
 ちなみに、このセミナーやシードマネーの提供は前号で述べたボランティア貯金寄附金で賄われている。郵政省(当時)は、「顔の見える援助」というフレーズが気に入っていたから、私たちもとにかく現地に行かないといけなかった。
 とにかく、こうやって途上国に行くことを繰り返すうちに、ど素人はすこしずつ耳学問と目の前の現実を重ね合わせて、どうにかこうにか、十年余の「経験」を持つ障害NGOの職員になった。そう考えると、「顔の見える援助」は、途上国の役に立ったかどうかは分からないが、ひとりの先進国の若者のキャリア形成には役に立ったかもしれない。皮肉なものである。

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